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No.6 風呂あれこれ
「ユイズル」を語源とし、縮まって「イヅ」となったと言われる伊豆の西側戸田(へだ)に先年やっと温泉が出て、船着場の奥の一部に町営の温泉がある。この戸田の港をかかえこむように延びている岬の先端に近く、T大の寮があり何本かの槙(まき)の大木に囲まれている。
この槙が桧を超えて珍重された浴槽の材料ということは意外と知られていない。風呂と言う言葉は元来蒸気風呂のことであり、瀬戸内海沿岸の石風呂や、洛北八瀬の釜風呂などである。
禊(みそぎ)のために入浴は宮中での神事としてのセレモ二―に組込まれ、大嘗祭でも重要な儀式として行われた筈である。入浴は仏教とも深いつながりがあり、仏典にも入浴によって七病を除き七福を得るという功徳をといて重視した。
布教もかねて大湯屋と呼ばれる大規模な浴堂が作られ、光明皇后や高僧行基の各伝説もあるが、特に鎌倉時代には大衆に対して長期大規模の施浴が行われた。(嘉禄元年-一二二五年)
この時代の入浴様式は取り湯式のようである。同じ形式による浴室に東大寺の大湯屋がある。
ここは現存する遺構中最大の規模と言われ桁行八間梁間五間で屋根の前面入母屋造、後面を切妻として、後方に櫓煙出をつけ正面は西側である。後年江戸明治又は近年に至る銭湯の正面及び浴室入口などについて象徴的な示唆を与えていることは間違いない。
簀子床を使った蒸気風呂に対し板床の上に湯を入れて湯浴を兼ねる「戸棚風呂」の存在も記すべきだが、江戸時代には柘榴□(ざくろぐち)を設けた銭湯が主流となり、寛政の改革で上方にも男女別が行われた。
風呂好きの日本人が都市部で発達させた銭湯であるが、農村部では水と薪と時間の関係で井戸端での行水を主としたが様々な工夫をした蒸気風呂が見られる。
又据風呂としての鉄砲風呂、弥次さん喜多さんで知られる五右衛門風呂があり、後者は旅籠屋に使われた。
川崎市立日本民家園に保存されている佐々木家住宅(長野県南佐久郡で歴代名主の家)には、接客用浴室として上座敷に付属して湯殿をもち、床は板張で水勾配をつけ中央に溝を作り排水するよう造られ、桶で湯を運んでのかかり湯式とみられる。
現代の浴室又は西洋式浴室についての議論についても言及すべきであるが敢えて割愛する。
長浦 長谷川
カット・高倉瑶子